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2007年10月31日

ペトロは有名です

ペトロはキリストの弟子で一番有名ですよね。

ペトロ(シモン・ペトロ、ペテロ、ケファともいわれる。生年不明-67年?)は新約聖書に登場する人物、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダー。カトリック教会はじめ多くのキリスト教派において聖人であり、その記念日(聖名祝日)は6月29日である。

本名はシモン(?????)であるが、イエスにより「ケファ」(アラム語で岩という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」(主格。格変化語尾を除いて名詞幹のみにした慣用日本語訳表記で「ペトロ」となる。)という呼び名で知られるようになる。パウロも書簡の中で、ペトロのことをケファと呼んでいる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる。」(マタイ16:17-19)と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペテロが受けるだろうとしている。

また、「ペトロ」は聖ペトロにちなむヨーロッパ諸言語の一般的な男性名としても用いられ、現代言語では英語のピーター、フランス語のピエール、ドイツ語のペーター、スペイン語のペドロ、ロシア語のピョートル、イタリア語のピエトロなどのように発音される。【ウィキペディアWikipediaより引用】

ちなみにサンピエトロ大聖堂はペトロが語源なの知ってます?

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2007年10月01日

ローマ建築概説について考えました

ローマ建築

ローマ建築(Roman Architecture)は、古代ローマの最も独創的な芸術。共和制ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。

ギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では建築物が相互に関連し、複合して成り立っている。そのそのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築ではバシリカや神殿を包含したフォルム、コロッセオなどの公共施設が想起される。また、水道橋のアーチ、天井を覆うヴォールト・ドームなどの優れた建築工学も、ローマ建築の特徴である。

概説

ニームのメゾン・カレー
ギリシア神殿とエトルリア神殿の形式が混じりあった帝政初期の神殿建築。
ハドリアヌスのヴィッラ
ギリシア伝統のオーダーとローマン・コンクリートによる造形が融合した邸宅建築。
マクセンティウスのバシリカ
末期ローマのバシリカローマ建築は紀元前6世紀頃から4世紀までに形成された古代ローマの建築である。4世紀以降、ローマ帝国の政治機構と文化は東方に継承され、15世紀まで存続することになるが、この東ローマ帝国の建築はビザンティン建築として、ふつうローマ建築とは区別される。

古代ローマは、紀元前1世紀に地中海を取り巻く広大な地域を勢力下においたが、首都ローマと先進的な東方属州、蛮族の割拠する北方の建築活動は一様ではなく、当然、地域的な差異もたいへん大きかった。ただし、一般的にはヘレニズム文化を擁する東方属州は常に伝統的要素の源泉であり続け、ローマ建築の影響を受けるのが遅く、一方で、ガリア、ヒスパニアなどの北方・西方属州は様々な点で首都の建築を素早く取り入れ、これを自由に発展させていく傾向にあったと言える。これらの土地でローマによって建設された都市は、ローマの社会制度とともに、属州をローマ化する力となった。

共和制時代に急速に領土を拡張したローマは、地中海の交易路を活用し、地方から流れ込む潤沢な資本によって活発な活動を行うようになった。建築においてはオープス・カエメンティキウム(通称ローマン・コンクリート。古代コンクリートとも呼ばれる)の運用と、ローマの社会制度に即した建築施設を構築した。首都は芸術活動においてたいへん保守的であったため、一般に、このような活動は首都ではなく、まずローマ人入植地や軍事拠点となる都市で行われた。そこで導入された新しい施工技術や公共施設が成功を収めると、首都において採用され、そして文化水準で劣る他の地方都市へと波及していった[4]。

ローマが帝政を敷いてからは、建築を含む諸芸術は皇帝の好みを直接的に反映するようになり、帝国最盛期となる五賢帝時代には、ローマン・コンクリートを用いた独創的かつ壮大な建築を生み出した。2世紀初期まで、ローマ建築を牽引したのは皇帝の手による首都、あるいはその近郊の建築活動であったが、2世紀の四半世紀を過ぎると首都は公共建築で飽和状態となり、ローマ市の建築活動は停滞した。続く混乱期には首都の建築活動は完全に停止するが、この時期、ローマ建築は経済的繁栄を謳歌していた地中海沿岸部の都市で維持された。

3世紀後半に首都の建築活動は再開されるが、ローマ帝国を取り巻く環境は大きく変化していた。テトラルキアによって各地に小ローマとも言うべき都市が建設され、そこでは伝統に縛られない自由な建築が萌芽したが、同時にこれは首都ローマが帝国の活動中心地ではなくなったことを意味した。また、コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されると、ローマ建築はキリスト教の礼拝空間を生み出す素地としての役割を果たした。

395年のテオドシウス1世の死によって、ローマ帝国は西と東に分裂したまま二度と統合されなかった。西ローマは476年に消滅し、情勢不安、異民族の侵入、戦争などの渦の中でその建築も徐々に消滅していった[6]が、東方ではその経済力と技術力によって、ローマ建築はさらに発展していくことになる