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2008年03月10日

エンペラー

かっこいい肩書きですよね!

皇帝(こうてい、ラテン語:imperator, Caesar 英語:emperor ドイツ語:Kaiser ギリシャ語:Βασιλευς ロシア語:царь, император)は、君主の称号(君主号)の一種である。女性の場合、女帝、女皇などと言うこともある。なお、皇帝の后妃を皇后という。現在、国際的に承認されている国家の元首で「皇帝」(Emperor)号を対外的に使用するのは、日本の天皇(Emperor of Japan)のみである(ただし、日本国内では日本国憲法に元首の規定がない為、天皇を元首及び君主とするか否かについては議論がある)。

国の上に立ち、多数の国々と諸民族を支配するという意味があり、皇帝の支配する国を帝国、皇帝を戴く君主政体を帝政と呼び、世襲の場合が多い。しかし、以上の諸点にはそれぞれ無視できない例外がある。

現代の日本語で「皇帝」とは、東アジアで使われていた秦の始皇帝を起源とする称号と、ヨーロッパで使われていた古代ローマのインペラトル、カエサルを起源とする称号の2つ、あるいはこれらと同等と見なされるものを指す。どういったものが同等かについて定まった基準はなく、時代や人により異なる。皇帝・帝国という概念を時代、地域に関わりなく当て嵌めていた時期もあったが、現在では無理に翻訳せずに元々の称号をそのまま使用する事が多くなっている。
(以上、ウィキペディアより引用)

最強って感じがします!

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2008年02月25日

対位法とは。

対位法ということがあったことすら知りませんでした。
おもしろいですね。

対位法は、和声法と並んで西洋の伝統的音楽理論の根幹をなしている。ただし、和声法が主に楽曲に使われている個々の和音の類別や、和音をいかに経時的に連結するかを問題にするのに対し、対位法は主に「旋律をいかに同時的に組み合わせるか」という観点から論じられる。
一例を挙げると、輪唱の場合、和音の連続、つまり音と音の同時的なつながりの連鎖を意識して作られているというよりは、旋律を時間的にずらすこと、つまり音と音との経時的なつながりの堆積によって得られると考えるのが自然である。そこで輪唱は和声的というより対位法的な音楽であるということができる。
もっとも、和声法においても和音を連結する際に各声部の旋律の流れは論じられるし、対位法においても旋律間の調和を問題とする以上、音の積み重ねによって生じた和音を無視するわけではない。これら二つの理論の違いは観点の相違であって、全く相反するような性質のものではない。
特に初期の和声法ほど各声部の対位法的な扱いを重視しているのは、音楽理論としては対位法の方が先にあり、後からできた和声法が対位法の影響を多分に受けているからである。

また対位法とは、狭義にはフックスの理論書を淵源とする厳格対位法(類的対位法)の理論、並びにその実習のことであり、作曲の理論・実習のひとつである。


歴史
多声音楽(複数の声部からなる音楽)そのものの起源は定かではないが、今日まで続く対位法の技法・理論は中世の教会音楽に端を発している。9世紀頃、単声のグレゴリオ聖歌に対して4度あるいは5度で平行する旋律を付加する、オルガヌムと呼ばれる唱法が出現した。当初、オルガヌムにはリズム上の独立性はなく、一つの音符に対しては一つの音符が付加された。“対位法”(counterpoint)という語の語源はラテン語の“punctus contra punctum”(点対点、つまり音符に対する音符)であり、ここに由来する。

11世紀には、平行進行のみでなく反進行や斜進行も用いられる自由オルガヌムが用いられたが、リズム的には一音符対一音符のままであった。12世紀になって、単声を保続音としてその上により細かい音符を付加する、メリスマ的オルガヌムの技法が現れた。

アルス・アンティクアの時代(12世紀中頃?13世紀末)には、声部の数がそれまでの二声から、三声、四声へと拡大し、オルガヌムもより複雑化した。アルス・ノーヴァの時代(14世紀)に至ると、それまでの定型的なリズムに替わって、より多様なリズムも用いられるようになった。また、オルガヌムのように既存の音素材に付加する形をとるのではなく、音楽全体を新たに作曲する傾向も生まれた。

ルネサンス期(16世紀 - 17世紀)になると、各声部の独立性はさらに明確化した。ルネサンス末期に現れたパレストリーナの様式は対位法の模範とされる。またルネサンス末期には、旋律と旋律の積み重ねによってではなく、和音と和音との連結によって音楽を創る、和声の発想が現れ、以後次第に西洋音楽においてはこの発想が支配的となった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年02月06日

世界最高峰

物理的にですが…。

エベレスト(Everest、チベット名:Chomolungma or Qomolangma、ネパール名:Sagarmatha)とはヒマラヤ山脈にある世界最高峰である。ちなみに漢字表記はチョモランマの「珠穆朗瑪」のみであり、エベレストとサガルマーターの漢字表記は無い。

標高については諸説あり、1954年にインド測量局が周辺12ヶ所で測定しその結果を平均して得られた8,848mが長年一般に認められてきた。1975年には中国政府が雪面を含む標高を8,849.05m(8,848.13m+積雪0.92 m)と測定した。1999年、全米地理学協会はGPSによる測定値が8,850mであったと発表した。2005年10月9日、中国国家測量局が2005年5月時点での標高は8,844.43m(3.5mの氷雪は標高に含まず)と発表した[1]。ただし、ネパール政府は現在もこれらの測定結果を認定せず、公式には8,848mとしている。地殻変動、地球温暖化による影響などもあり、標高は年々変動していると考えられる。

英名・エベレストはヒマラヤ山脈を測量した時にインド測量局長官であったイギリス人のジョージ・エベレスト(George Everest)にちなむ。なお、近代的車いすの発明者であるエベレストとは別人である。さらに、エベレスト卿本人は現地名を重視する考えで自分の名がつけられるのを嫌っていたが、本人の死後に名前がつけられてしまった。チベット名の「チョモランマ(???????????, Chomo Langma)」はチベット語で「大地の母」の意味、ネパール名の「サガルマーター(???????, Sagarmatha)」はサンスクリット語で「世界の頂上」の意味である。エレベストと誤記されることが多々ある。

古代この高峰はサンスクリット語でデヴギリDevgiri(神聖な山という意味)またはデヴァデュルガDevadurga(19世紀の英語圏での発音はデオデュンガdeodungha)と呼ばれていた。また現在、ネパールでの名称はサガルマーター、チベットでの名称はチョモランマである。中国では珠穆朗瑪峰(Zhūmùlǎngmǎ Fēng)または聖母峰(Shèngmǔ Fēng)と呼ばれている。

1865年、英国インド測量局の職員であったアンドリュー・ウォー(Andrew Waugh)によって、英語名がつけられた。チベットとネパール、双方への外国人の立ち入りが禁止されていた当時、彼は手記に以下のように記している。

「尊敬する局長であり先任者のカーネル・サー・ジョージ・エベレスト(Colonel Sir George Everest)は、全ての地形に現地での呼称を採用するよう、私に教えてきた。しかしこの山には、おそらく世界最高峰であろうこの山には、現地での呼称を見いだすことができなかった。もし仮にそれがあったとしても、私たちがネパールへの立ち入りを許可される前に、それが見つかることはないだろう。今のところ、この高峰を名付ける特権と責任とは、同等に私に委譲されているものと思う。この山の存在が、市民と地理学者に広く知られ、文明国家に深く浸透するかは、この高峰の名称如何に懸っているであろう。」

ウォーはこの山にジョージ・エベレストに因んだ名称をつけることにした。綴りは初めはMont Everest、後にMount Everestに変更した。しかしながら、現在のエベレストの発音(IPA:[??v?r?st]または[??v?r?st] [EV-er-est])と実際のサー・ジョージ・エベレストの発音([?iv;r?st](EAVE-rest))は異なっている。

1960年代、ネパール政府はエベレストには元々現地での呼び名が存在していたことを発見した。これまでこの存在が知られていなかったのは、エベレストがカトマンズの渓谷とその周辺地域の民族に知られておらず名づけられていなかったからで、政府はエベレストの名称を探し出すことに着手した。しかし、シェルパ族の間での名称・チョモランマはネパール統一国家の考えに反するとして採用されなかった。現在のネパール名・サガルマーターはネパールの著名な歴史学者、バブラム・アチャリャ(Baburam Acharya)によって考案されたものである。

2002年、中国の人民日報は西洋でも英語名エベレストの使用をやめて、チベット名のチョモランマを採用するべきと主張する記事を掲載した。人民日報はチョモランマという中国名は280年以上前の地図にも記載されており、英語名よりも歴史が長いと主張している。
(以上、ウィキペディアより引用)

チョモランマだとちょっとかっこ悪いですよね。

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2007年12月27日

最近また見直されているエンジンですね!

私は排気ガスがすごいというイメージしかありませんが。。

ディーゼルエンジン (diesel engine) は、ディーゼル機関(?きかん)ともいい、ドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルが発明した内燃機関。1892年に発明され、1893年2月23日に特許を取得した。

燃焼室内で空気を高圧に圧縮して高温を持たせ、そこに燃料を噴射することで自然着火させる構造を基本とする。

実用的な内燃機関の中ではもっとも熱効率に優れる種類のエンジンであり、また軽油・重油などの一般的燃料の他にも、様々な種類の液体燃料が使用可能である[1]。汎用性が高く、小型高速機関から巨大な船舶用低速機関まで様々なバリエーションが存在する。

エンジン名称は発明者にちなむものであるが、日本語表記では一般に普及した「ディーゼル」のほか、かつては「ヂーゼル」「ジーゼル」とも表記された。日本の自動車整備士国家試験ではジーゼルエンジンと呼称している。

仕組み
圧縮して高温になった空気にディーゼル燃料(軽油や重油)を吹き込んだ時に起きる、自己着火(正しくは「発火」)をもとにした爆発でピストンを押し出す(超拡散燃焼)。理論サイクルとして低速のものはディーゼルサイクル(等圧サイクル)、高速のものはサバテサイクル(複合サイクル)が理論サイクルとして取り扱われる。

吸入行程: ピストンが下がり、空気のみをシリンダ内に吸い込む行程。
圧縮行程: ピストンが上死点まで上がり空気を圧縮する行程。
膨張行程: 高圧のシリンダー内に燃料を噴射・燃焼し、燃焼ガスがピストンを下死点まで押し下げる行程。
排気行程: 慣性によりピストンが上がり燃焼ガスをシリンダ外に押し出す行程。
21世紀初めの現代の高速ディーゼルエンジンでは4ストローク機関が主流であり、航空機にまで使われたクルップ・ユンカース式や、GMのユニフロースカベンジング式など、第二次世界大戦以前から出現していた2ストローク機関は姿を消した。一方、極低速回転の大型船舶用は、2ストローク型(ユニフロー・スカベンジング・ディーゼル)が主流となっている。

燃料の噴射には高圧ポンプが使用され、燃焼方式の違いで、単室の直接噴射式と副室式(予燃焼室式・渦流室式)に分かれる。

ディーゼルエンジンは圧縮によって吸気を高温にする必要があるために高い圧縮比が要求される。圧縮比が高いために熱効率が良いと言われることが多いが、高すぎる圧縮比はエンジンにより高い機械的強度を要求し、そのために部品を丈夫にする必要が生じ、部品が重くなるために機械的損失が大きくなる。自動車用ではかつては圧縮比が20以上であったが、21世紀以降では圧縮比は16程度まで低下している。かつての高圧縮比は、寒冷時の始動性向上のためには高い圧縮比が必要であったためである。

ガソリンエンジンと異なり、過給をしても圧縮比を下げる必要がないために過給とは技術的な相性がよい。自動車用高速ディーゼルエンジンは、そのほとんどがターボ過給されるようになっている。ターボ過給をすることにより同じ出力をより小さい排気量、より低い回転数で発生することが可能となり、ディーゼルエンジンの高性能化が一気に進んだ。

従来、高速走行の頻度が高いバスやカーゴトラックには、古くからターボチャージャーが普及していたが、低ミュー路や、走行抵抗の大きい悪路での微・低速走行の機会の多いダンプトラックでは、レスポンスに優れ、扱いやすい排気量20リッター以上の、V型8気筒自然吸気エンジンが好まれてきた経緯がある。しかし、次第に厳しくなる排ガス規制の前に、各社とも排気量を11 ~ 13リッター程度まで落とし、エミッション低減デバイスとの親和性が高い直列6気筒エンジンに生産を絞り 込んだため、排気量の大きなV8自然吸気エンジンは姿を消した。
(以上、ウィキペディアより引用)

あと馬力がないイメージが…。

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2007年12月03日

牛海綿状脳症は有名ですよね

牛海綿状脳症について意味を模索する事は必ず自分の成長につながると思っております。

牛海綿状脳症(うし かいめんじょう のうしょう、Bovine Spongiform Encephalopathy, BSE)は、牛の脳の中に空洞ができ、スポンジ(海綿)状になる病気である。「ぎゅう かいめんじょう のうしょう」とも読む。羊のスクレイピーや、鹿の慢性消耗病(CWD)、他、ヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease, CJD) などを総称して伝染性(伝達性)海綿状脳症(Transmissible Spongiform Encephalopathy, TSE)と表記される場合もある。家畜伝染病予防法によって指定されている家畜伝染病の一つ。

1986年にイギリスで発生して以来、英語俗語の Mad Cow Disease の直訳である狂牛病(きょうぎゅうびょう)との表記も盛んに使われてきているが、精神病だという誤解を招いたり、更には牛海綿状脳症が人間に伝染して起こる変異型クロイツフェルト・ヤコブ病患者への偏見を煽る可能性があるとして、使用しない方が良いといわれる。

この病気が発症した牛は、当初は痙攣を起こしたりする程度で目立った症状は現れないが、やがて音や接触に対して過敏な反応をするようになり、病状がさらに進むと運動機能に関連する部位も冒されて立てなくなるなどの症状を示す。イギリスで発生したのは、飼料として与えた汚染肉骨粉が感染源と考えられている。なお、日本での発生原因は完全には解明されていない。
【ウィキペディアWikipediaより引用】

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2007年10月31日

ペトロは有名です

ペトロはキリストの弟子で一番有名ですよね。

ペトロ(シモン・ペトロ、ペテロ、ケファともいわれる。生年不明-67年?)は新約聖書に登場する人物、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダー。カトリック教会はじめ多くのキリスト教派において聖人であり、その記念日(聖名祝日)は6月29日である。

本名はシモン(?????)であるが、イエスにより「ケファ」(アラム語で岩という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」(主格。格変化語尾を除いて名詞幹のみにした慣用日本語訳表記で「ペトロ」となる。)という呼び名で知られるようになる。パウロも書簡の中で、ペトロのことをケファと呼んでいる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる。」(マタイ16:17-19)と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペテロが受けるだろうとしている。

また、「ペトロ」は聖ペトロにちなむヨーロッパ諸言語の一般的な男性名としても用いられ、現代言語では英語のピーター、フランス語のピエール、ドイツ語のペーター、スペイン語のペドロ、ロシア語のピョートル、イタリア語のピエトロなどのように発音される。【ウィキペディアWikipediaより引用】

ちなみにサンピエトロ大聖堂はペトロが語源なの知ってます?

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2007年10月01日

ローマ建築概説について考えました

ローマ建築

ローマ建築(Roman Architecture)は、古代ローマの最も独創的な芸術。共和制ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。

ギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では建築物が相互に関連し、複合して成り立っている。そのそのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築ではバシリカや神殿を包含したフォルム、コロッセオなどの公共施設が想起される。また、水道橋のアーチ、天井を覆うヴォールト・ドームなどの優れた建築工学も、ローマ建築の特徴である。

概説

ニームのメゾン・カレー
ギリシア神殿とエトルリア神殿の形式が混じりあった帝政初期の神殿建築。
ハドリアヌスのヴィッラ
ギリシア伝統のオーダーとローマン・コンクリートによる造形が融合した邸宅建築。
マクセンティウスのバシリカ
末期ローマのバシリカローマ建築は紀元前6世紀頃から4世紀までに形成された古代ローマの建築である。4世紀以降、ローマ帝国の政治機構と文化は東方に継承され、15世紀まで存続することになるが、この東ローマ帝国の建築はビザンティン建築として、ふつうローマ建築とは区別される。

古代ローマは、紀元前1世紀に地中海を取り巻く広大な地域を勢力下においたが、首都ローマと先進的な東方属州、蛮族の割拠する北方の建築活動は一様ではなく、当然、地域的な差異もたいへん大きかった。ただし、一般的にはヘレニズム文化を擁する東方属州は常に伝統的要素の源泉であり続け、ローマ建築の影響を受けるのが遅く、一方で、ガリア、ヒスパニアなどの北方・西方属州は様々な点で首都の建築を素早く取り入れ、これを自由に発展させていく傾向にあったと言える。これらの土地でローマによって建設された都市は、ローマの社会制度とともに、属州をローマ化する力となった。

共和制時代に急速に領土を拡張したローマは、地中海の交易路を活用し、地方から流れ込む潤沢な資本によって活発な活動を行うようになった。建築においてはオープス・カエメンティキウム(通称ローマン・コンクリート。古代コンクリートとも呼ばれる)の運用と、ローマの社会制度に即した建築施設を構築した。首都は芸術活動においてたいへん保守的であったため、一般に、このような活動は首都ではなく、まずローマ人入植地や軍事拠点となる都市で行われた。そこで導入された新しい施工技術や公共施設が成功を収めると、首都において採用され、そして文化水準で劣る他の地方都市へと波及していった[4]。

ローマが帝政を敷いてからは、建築を含む諸芸術は皇帝の好みを直接的に反映するようになり、帝国最盛期となる五賢帝時代には、ローマン・コンクリートを用いた独創的かつ壮大な建築を生み出した。2世紀初期まで、ローマ建築を牽引したのは皇帝の手による首都、あるいはその近郊の建築活動であったが、2世紀の四半世紀を過ぎると首都は公共建築で飽和状態となり、ローマ市の建築活動は停滞した。続く混乱期には首都の建築活動は完全に停止するが、この時期、ローマ建築は経済的繁栄を謳歌していた地中海沿岸部の都市で維持された。

3世紀後半に首都の建築活動は再開されるが、ローマ帝国を取り巻く環境は大きく変化していた。テトラルキアによって各地に小ローマとも言うべき都市が建設され、そこでは伝統に縛られない自由な建築が萌芽したが、同時にこれは首都ローマが帝国の活動中心地ではなくなったことを意味した。また、コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されると、ローマ建築はキリスト教の礼拝空間を生み出す素地としての役割を果たした。

395年のテオドシウス1世の死によって、ローマ帝国は西と東に分裂したまま二度と統合されなかった。西ローマは476年に消滅し、情勢不安、異民族の侵入、戦争などの渦の中でその建築も徐々に消滅していった[6]が、東方ではその経済力と技術力によって、ローマ建築はさらに発展していくことになる